自ら覚る
淡々とした日常および自分用メモ。と、言いつつ画材や心得的な話題に終始する。
思えば、むせる事も無く、料理を取り上げる事も無く、さりとてパズドラの沼にはまり込んでも居ない状態で雑記を書くというのは、とても久しぶりに思える。
つーか年明け最初の雑記以来か? むせもせず料理もパズドラも物欲も入らない雑記は。
まぁその分、書く事もあんまり無いんだがな。
■いたずらなストロークが削る芯
鋭く細くなるばかり。僕の躰は鈍く光るナイフ それでも 誰か 抱いておくれ
まぁRURUTIAとかプロミスト・ランドまでしか聞いてないし、そもそも一番好きな曲は「知恵の実」ではなく同じアルバムなら「ロスト バタフライ」だ。
因みに2ndなら「オール」で3rdなら「トロイメライ」な!
いや違う、RURUTIAは関係ない。
本題は、ペンタブの芯が遂に限界でござる! という話。年明けにもちょろっと書いたが、いよいよヤバい。ということで、芯を交換する事にした。
実はペンタブの芯を交換するのはこれが初めて。初代Intuos時代も酷使してた覚えがあるが、それでも交換した事が無い。
大きな要因は二つ。
一つ目は、初代より筆圧感知が鋭敏になっているから筆圧をかけて使う事が圧倒的に多くなっているということ。これは右腕への反動という意味でも間違ってはいないだろう。
二つ目は、そもそもIntuos5の標準芯が摩耗しやすい。と言ってもこれは確証がある話ではなく、あくまで俺が「初代と比べてそう感じる」という話だ。
原因は兎も角、摩耗しペン軸自体の先端まで磨り減ってるし、もう放置は出来ないって話。
んで、いざ交換の為にペンスタンド開けてみて気付いたけど、全部同じ替芯が入ってる訳でもないのな。今までと同じ標準芯が5本、灰色のハードフェルト芯が3本、先端が白いエラストマー芯とバネが付いてるストローク芯が1本ずつの、計10本。真ん中に金属製の芯抜き。
芯を換えた事が無い=標準芯以外を使った事が無い。
それはちょっと勿体ないな、っつー事で丁度ダラダラしてたらまたラクガキを溜めちゃった事だし、使った事が無い三種の芯でそれぞれ描いてみる事にした。
三日分ラクガキが溜まってるし一日分を一種の芯で描いてみよう的な。
つー訳で、今度は俺以外には特に必要ない使い心地レポでも書くか。
■自覚的であれ、とラクガキングは言った
「絵を描いて生きていく方法?」というご存知ラクガキング寺田克也のインタビューコンテンツを最近知った。まぁ知ったからには俺が読まない訳ないだろう。って事で読んでるんだが……まぁ本当、自信の瓦解というか、過信の瓦解がガンガン起きるね。
最初のプレオープン記事で書かれていた「自覚的である事の重要性」に関しては思い当たる節がいくつもある。自覚している、という事はそのまま記憶にも関連してんじゃないのかなぁとも思うしな。駄目な意味でテキトーにいい加減に物事に接していると、驚く程記憶に残らない。
自覚的に物事と対峙していれば、記憶に刻まれる物だ。流されるだけの人生なら、記憶も時間に流されるだけってな。まったく。今更そんな事に気付くとは。
人生とは無数の選択であり、基本的にあらゆる事象はその選択が作り出すものだ。
絵もデザインも選択によって構築される。
選択に対する何故に答えられなければ、優れたデザインではない。というのは聞いた事が有るが、絵だってそうだわな。つーか人の為す事全てにそれは通ずるんじゃねーのって話だ。
好きか嫌いかの二択から、何故にその色を選んだ何故にその形にしたという無数の選択。それら全てへの何故を意識しなけりゃな。何も変わらないとは言わないが、酷く効率が悪い。
やたらと尊ばれる「直感」言い換えれば「何となく」だが、本来「何となく」で選んだ事に対する説明は「何となく」程度の説得力しか持たず、それで人を納得させるというのは不可能に近い。それを可能にするには「何となく」の精度を上げ、瞬間には直感で選んだとしても、後からでもその「直感の判断」の解像度を上げ選び出した理由を自覚しなければならない。
優れた絵描きは、自分の視点だけでなく自分の言葉を持っている。
それは無数の選択に対して、意識的な自覚や瞬間的な認識によって対峙しているからだ。
つまり目指すべきは直感ではなく、それを超えた「直観」って話だ。
そこに至る為に、「自覚的である」という訓練が必要になるってな。
■公式を脳に入れろと、ラクガキングは言った
所詮、口だけ絵描きというだけあって、デッサンのグリッド云々をよく理解していなかった。
公式を知らないというのは理屈を知らない事、つまり土台が欠けた状態だ。
その上に自分の画風を色々作ってるようなもんか。
そりゃ簡単にぶっ壊れるし、さっぱり広がらねえわけだ。
それなりに現在地に細やかながらも自負は有ったはずだけど、まぁ瓦解するよなそら。そんでもって、許せんのはその程度で瓦解するものを自負としていた事だ。甘い。甘過ぎる。
脳に存在し、起動出来る公式やフィルタが多ければ多い程良い……という訳でもないとは思うが、多ければ多い程、同時に起動出来れば出来る程、それを使った思考と眼と手の使い方が上手くなる程、コントロール出来る画風や目の前に無くても描ける物が増えていく。
……というのは強ち間違っては居ないだろう。多分。
そこに至るまでは苦しいかもしれないが……でもなぁワクワクするんだよなぁ。
自分の思い描いている妄想を今以上に具現化出来る、形にする式がまだまだ幾つもあるんだと思うと、否応無しに心は高鳴る。勉強不足は辟易するが、妙に嬉しくなるね。