クドリャフカの順番
今回の感想文は米澤穂信著の「クドリャフカの順番」。
古典部シリーズの三作目。「愚者のエンドロール」との間に「さよなら妖精」を挟み、断絶を経た新生の一作と言ってもいいかもしれない。ある意味で裏古典部完結編だった「さよなら妖精」と対をなす、正当な古典部の続編。
ぶっちゃけて書いちゃうと、古典部シリーズで本当に面白いと何度も読み直してるのは、この「クドリャフカの順番」以降。より正確に書くなら「さよなら妖精」以降だ。
つまり、米澤穂信の本領が発揮されている、あるいは着実に力を増しそれが結実した一作。
というわけで、ここから先はいつものごとく感想を書く上でネタバレを自重出来る気がしないので、未読の方はブラウザバックを推奨。特にジャンル的にネタバレは致命的だよ。
まず、概要。
裏表紙から引用すると
待望の文化祭が始まった。だが折木奉太郎が所属する古典部で大問題が発生。手違いで文集「氷菓」を作りすぎたのだ。部員が頭を抱えるそのとき、学内では奇妙な連族盗難事件が起きていた。盗まれたものは碁石、タロットカード、水鉄砲——。この事件を解決して古典部の知名度を上げよう! 目指すは文集の完売だ!! 盛り上がる仲間たちに後押しされて、奉太郎は事件の謎に挑むはめに……。大人気<古典部>シリーズ第3弾!
実は古典部シリーズが裏表紙で出て来たのはここから。考えてみれば一作目も二作目も、古典部シリーズって表現してなかった。そしてほろ苦いという表現が消えているのもポイント。
まぁ正直ほろ苦いどころか、青春の光と影がその中間色を掻き消す勢いで二極化してるからね。その辺は感想を書き綴っていくうちに嫌でも出てくるだろうから、ここでは割愛。
例によってここからは項目ごとに感想。
- ・主役はこの祭だ
- 今作から主役交代! ……と言う訳ではなく、登場人物はこれまでの二作と共通している。大きな変化は、ずっと奉太郎の一人称だった地の文が章中に古典部の部員達で移り変わるという部分。あとがきで作者が明確に書いているが、これは「文化祭」を主役にする為の措置であり、また終盤まで店番と言う名目で安楽椅子探偵役に収まる奉太郎(と読者)に情報を与えるための措置だ。
実際、この措置と言うか形式の導入は功を奏している。
本書はジャンル的には「日常の謎」というミステリーの一派に属すると思われるが、それでいながら「文化祭」という日常の中の非日常を描く事に成功している。実際にその文化祭に参加しているような読み心地、古典部シリーズでは初の劇場型犯罪(と言うのは少々大仰だが)の謎、最後には心を抉られるような記憶にある影を呼び起こすような結末と本書の裏テーマを知る事が出来る。これは多視点を導入しなければ描けなかっただろう。 - ・色々出てくるキャラ達
- 主役は文化祭だが、当然実際に躍動するのは人物達な訳で。古典部の四人は勿論、「愚者のエンドロール」の女帝・入須冬実や「氷菓」で奉太郎に使いっ走りをさせられた遠垣内将司、毎作出てる沢木口美崎など、シリーズで登場したキャラも多数登場している。
既存のキャラだけでも割と出てくる上に、新キャラや名前だけ出ていた人物が本格的に登場したりと、数が多い。とは言え、クローズアップされていたり、話の流れに関わってくる上にネームドキャラである人間は流石に絞られている。
今回、クローズアップされるキャラクター達は例外を除いて三種類に分けられる。一つは被害者……つまり十文字に何かを盗まれた人間。一つは後述する今作の裏テーマ「期待」を描く為に古典部の面々と関わる人間。そして最後は十文字事件の核心に居る人間。
被害者には十文字かほ、遠垣内将司の二人が該当し、期待を描く人間には千反田えるに入須冬実、福部里志に谷惟之、伊原摩耶花に河内亜也子が割り当てられる。そして十文字事件の核心に存在し、ある意味では折木奉太郎に期待が何たるかを示すのが田名辺治朗だ。前作には強烈な存在感を示していた女帝が居たが、今作のキャラクターにはフィクション性を一身に背負った強烈さは殆ど無い。それは同一人物である入須冬実も例外ではない。前作の中心的人物だったと言う補正が消えた彼女は重要なキャラクターだが、前作程のインパクトは無い。この変化は「愚者のエンドロール」と本作が同じシリーズでありながら一つの断裂を経ている事が大いに関係しているだろうが、まぁそれは割愛する。
兎も角、今作には強烈なキャラクターはあまり居ない。だが、印象に残る人間は居る。今回印象に残るのはキャラクター性と言うより人と人の間で生じる人間性の機微と言えるだろう。そして、その機微はそのまま裏テーマである「期待」へと繋がっている。 - ・期待が心を抉る
- 毎作存在する心を折られた、あるいは薔薇色のうねりに押しつぶされた人物。今回は期待という己の中のうねりに振り回された人物と言っても良いだろう。目立つのは古典部では福部里志、伊原摩耶花の二人で、他では河内亜也子と田名辺治朗が該当する。あるいは、僅かだが千反田えるも含めて良いかも知れない。
裏テーマは「期待」だと先述しているが、ここで言う「期待」とはそもそも何なのか? 一般的な国語的な意味は各自ググってもらうとして、今作では何人かの人物が言い表している。入須冬実はアドバイスを求める千反田えるに向かって期待を「人を操る手段」として表現し、それを使った後に千反田はもうこりごりだと零した。福部里志は谷惟之が軽々しく使うその言葉に対して「期待とは諦めから出る言葉」だと表現した。そして田名辺治朗は「絶望的な差から期待が生まれる」と表現した。
つまり、今作で表現される「期待」とは前作「愚者のエンドロール」で触れられていた「己の凡庸さ」を「絶望的な差を見せつけられて」知った時に生じるものだ。
ここで一つ気になるのは入須冬実だけが、本当の「期待」を知らないように見える。期待というものを人を動かす為に使える感情としか理解していない。
これは推測だが、彼女は奉太郎が言う所の「身を震わせるほど切実な期待」をした事が無いのだろう。(そう言う意味では入須と奉太郎は似た者同士とも言える)奉太郎をかつて煽動したのも「期待したふり」であって、入須の心はまるで動いていない。だからその言葉には里志や河内亜也子、田名辺治朗が吐き出した言葉ほどの真実味が無い。河内亜也子は「絶望的な差から生じる期待」を認めないがために自身の中にある熱意や友情を犠牲にし、伊原摩耶花は同じ地平に立っているつもりが無自覚だった「期待」を自覚して涙を流し、福部里志は一度は「期待をしない」という選択肢を選び自認していたデータベースの矜持を覆そうと奔走し、田名辺治朗は「期待を失望に変えない」ために十文字事件を起こした。これらはそれぞれ意味合いは少しずつ違うが、内なる期待に振り回された結果だと言えるだろう。つまり十文字事件は期待が生んだとも言える。
- ・散らばる小ネタ
- 今作は小ネタが多い。
伊原摩耶花と河内亜也子がしていたコスプレの元ネタ(因みにこれ、単行本と文庫本で初日の伊原の元ネタが変わっているという力の入れよう)や、作者が文庫版氷菓のあとがきで触れた寿司事件の顛末が落語研究会のネタになっていたり、これまでぼんやりしていた奉太郎以外の古典部員達がどういう人物なのかと言う掘り下げ、そして前作で完成した「万人の死角」が絶賛上映されていたり、極めつけは折木姉が帰国していて顔こそ合わせないものの実際に登場していたりなど、枚挙に遑がない。
この豊富な小ネタや今まで鏤められていたネタの回収こそが、これまでの集大成という読後感を支えていると言っても過言ではない。実際今作は「氷菓」「愚者のエンドロール」と合わせて古典部一年生シリーズの集大成となっているから、メインのストーリーラインだけでなく、小ネタだけでもお腹いっぱいになるほどのボリュームが有る。
余談だが、物理的にも今作から一気に厚くなってる。
■今回の痛み
お察しの通り、「期待」だ。これが今回の痛みの主成分。
期待すると言うのは、実際問題そんな胸を痛めるようなものではないと思う。ぼんやりとした期待も有るし、いちいち諦めを自覚して期待する人間の方が少ないだろう。だから、より正確に書くのならば「絶望的な差から生じ、身を震わせるほど切実な期待」を抱く痛みだろうし、さらに突っ込むのならその期待に対するスタンスで痛みを感じている。
言わば、今回は共通の痛みと言うよりは人物ごとに抱えた痛みが違う。
里志は持論通り諦めから期待をして「データベースは結論を出せない」と嘯く。その胸中たるや、前作で奉太郎が口にした「それを聞いて、安心しました」に匹敵する痛みだ。特に、彼が諦めてから、奉太郎が相談(とは名ばかりの誰かに喋る事による現状のまとめ)をする事で、読者の中で奉太郎が視点を持っている場面にも関わらず彼の痛みを想像出来てしまうという流れから、「データベースは結論を出せない」に行き着くのは本当に胸を刺すものが有る。更に最後の最後で奉太郎が十文字=田名辺に辿り着けたのは条件的に自分か強いて言えば里志しか居ない、と考えている辺りが痛みを倍加させる。
河内亜也子は自分の中に芽生えそうになった期待を押し殺す為に、自身の矜持や友情をも押し殺した。それがどんなに痛みを伴い辛い事かは想像に難くないだろう。
田名辺治朗はより直接的だ。今作の言わば犯人という主役にも匹敵する役所だからか、彼の抱えた痛みは里志や河内亜也子のものより克明に書き表されている。奉太郎との会話で「ぼくはまだ期待したかった」と言っているが、ここに含まれた痛みこそが、今回のメインだろう。
■まとめ
総評すると、古典部における一つの集大成。
「氷菓」「愚者のエンドロール」から続く、登場人物が部活動の目的地として文化祭で文集を出すと言う目的を定めていた話の流れからしても、集大成と言っても過言ではないだろう。
そして何より、長編小説の話の面白さや構成としても抜きん出ている。
前作、前々作を通して奉太郎が最も探偵らしい言動をしている、というのも一つのポイントだろう。犯人と対峙し、名指しするシーンなど推理小説のそれと見紛うばかりだ。
ミステリのオマージュとしては劇中でクリスティの作品を幾つか挙げている上に、十文字事件そのものがABC殺人事件をひねった筋書きだと明言されている。前作のオマージュがミステリ読みにしか分からないものであったのに比べて、今作ではより直接的になっているとも言える。
その分、これまで「時の姪」(俺が感想書いたのは貴方は逃げられないだったが)や「何故江波に聞かなかったのか?」などのオマージュ分が多かった英題が「Welcome to KANYA FESTA!」つまりはカンヤ祭へようこそ! という正にこの文化祭自体が主役であると言う事を表した英題になっていたりと、ミステリへのオマージュが新しい形にシフトしている。
古典部シリーズを読んでいるのなら、必読。読まない理由は無いはず。
期待という裏テーマや、古典部の一つの結実である文化祭。そして、裏古典部完結編とされていた「さよなら妖精」を経た正当続編としての一作。そういう意味でも必読。