さよなら妖精
今度デビュー作がアニメ化するよ! と言う事で(主に俺の中で)話題沸騰中の米澤穂信。
今回は氏の代表作とも言える文庫版「さよなら妖精」の感想文。
実は、長く空白期間が空いてしまった小説感想の復帰第一弾として早々に目を付けてました。
氏の作品で初めて触れた作品でもあり、友人の猛プッシュと内容で心を揺さぶられた結果、以前感想を書いた「ボトルネック」と同じく今もまだ強く記憶に焼き付いている。
感想を書く上でネタバレを自重出来る気がしないので、未読の方は回れ右推奨。
まず、概要。
裏表紙から引用すると
1991年4月。雨宿りするひとりの少女との偶然の出会いが、謎に満ちた日々への扉を開けた。遠い国からはるばるおれ達の街にやってきた少女、マーヤ。彼女と過ごす謎に満ちた日常。そして彼女が帰国した後、おれたちの最大の謎解きが始まる。
おれ、と一人称で語られている事から解るように、この物語は主人公「守屋路行」の視点で語られる。現在から過去を回想する形で話は進み、その視点を用いた巧みな伏線の数々とその鮮やかな回収がこの物語の持ち味だ。
そしてそれこそが、この物語を優れた「日常の謎」派ミステリーたらしめている。
最早好きすぎて、何から書けばいいのか解らない程だが、いつも通り項目に分けて書こう。
- ・妖精と愉快な仲間達
- この物語には中心的な人物が三人と特徴的なバイプレイヤーが二人配されている。
中心的人物の二人は先述の引用部分に出ている主人公の守屋と異国からやってきたマーヤ。
三人目は冒頭から登場するセンドーこと「太刀洗万智」。
二人の脇役にはクールな「文原竹彦」とほんわか&したたか「白川いずる」だ。
余談かつ「さよなら妖精」を読んだ事があり、古典部を知っている方には今更だが、この人物像の根っこには古典部が居る。……と言うより、残滓があると表現した方がいいか。
何でも、元々「さよなら妖精」は古典部の完結編として考えられていたそうだ。
古典部の面々からさよなら妖精の面々にどう受け継がれたのかは、調べれば出て来る事なのでここは割愛するが、調べればきっと(俺のような)米澤ドランカーは幸せになれるはず。
話が脱線してしまったが、魅力的な人物を生み出すという点では米澤穂信の力は今作でも遺憾なく発揮されている。因みにセンドーとマーヤの二強。 - ・Anti Cross-cultural Communication
- ユーゴスラヴィアという異国から日本へやってきたマーヤと、不思議な縁で関わる事になった守屋やセンドー達のやりとりは、表層的に見れば所謂異文化コミュニケーションに相違ない。しかし、それはあくまで見かけだけだ。
異文化コミュニケーションは、アイデンティティを確立させ自己を見つめ直す、所謂自分探しの旅と表現されるらしいが、それに即すのなら少なくともマーヤに関しては本質的に全く違うと言えるだろう。それが顕著に表れているのがマーヤの「それが、わたしの、仕事です」という台詞から始まり「……わたしは、政治家になるのです」の台詞で終わる場面だ。
使命を自覚し、それを全うしようと全身全霊を賭す。
何と、美しい姿か。
守屋が序章で「いま思い出した、あのひとは美しかった。だがなぜそれをいままで忘れていたかといえば、あのひとはその姿よりも価値あるものを見せてくれたからだ」と述懐していたのは、何もマーヤが美女だという事だけでは無いだろう。そこにはこの姿勢——生き様の美しさも含まれていたはずだ。
マーヤのアイデンティティは既に確立されている。
自分を探す必要はなく、探し求めているのは彼女自身が言っていた「六つの文化を止揚し、ユーゴスラヴィアを一つの国にする」ための力だろう。
その為に貪欲に知識を求め、蓄積した知識を知恵を持ってユーゴスラヴィアを一つにするための力へと変える。17歳にしてこれ程行動理念が完成されているなんて、小説の中の人物とは言え驚くばかりだ。守屋が惹かれる訳だ。 - ・Just Cross-cultural Communication
- では、守屋にとってはどうだったのか。
俺は正しく、異文化コミュニケーションだったのだろうと思っている。
何故そう思うか、と言えば彼が「芯」を持たない人物だからだ。
正確には「芯」を持たない事を自覚し、その「芯」にする「何か」を欲している。
「芯」を持たないのは物語を転がすため、恐らく作者が意図的にそうしているのだろうが、寧ろ十七歳の男子高校生で「自分の手が届く範囲の外に関わるのは、嘘だと思っている」なんて信条を掲げられる方が異端だと思うわけだが。兎も角、守屋はマーヤと関わる前から、自身(多くの日本に生きる青年)の置かれた状況に疑問を呈している。
人は二度生まれると、ルソーは言った。
一度は存在するため、二度目は生きるために。と。
いわば、守屋はその二度目の誕生を迎えるに当たって「芯」を欲し、鬱屈したものを抱える羽目になっていたわけだ。第二章「キメラの死」冒頭で守屋は自身が酷く安全な円の中にいるというイメージを述懐している。それはつまり、その円に居る限りは自身の鬱屈は晴れず、欲した「芯」は手に入らないと考えている証左に他ならない。
ふわふわとしたアイデンティティを確定させ、「芯」を生み出したい。
その為に、別の円へと憧れ、マーヤの訪れを別世界の扉が開いたとのだと歓喜した。
しかし、それを俺は笑う事が出来ない。
何故なら、痛いほどのにその気持ちが分かるからだ。 - ・閉じた扉と開く扉
- 別世界への憧れと、芯に作るために守屋はマーヤにユーゴスラヴィアへ連れて行ってくれと頼み、マーヤはそれを「観光に命を賭けるのは承伏出来ない」と切り捨てる。
守屋はここで別世界の扉は閉じられたと認識する。
しかし一年という時間を経た守屋は、閉じられた扉を自分から開けようとする。
何かを芯にしたい、程度の覚悟でユーゴスラヴィアに渡ろうとした自分の浅ましさと、マーヤとその背後に広がる別世界に魅了されただけの自分を理解し、消化した上で再びユーゴスラヴィアに渡ろうとする。今度は「マーヤを助ける」という明確な目的を持って。
だが、その目的ですらもう既に果たせぬものとなってしまっていた。
このシーンは凄まじく、守屋の決意と既に確定した事実の落差、そしてセンドーの悲痛な叫びは、容易に表現出来ない衝撃を読み手に与えてくる。
実際守屋に対する衝撃も凄まじく、「ひょっとしたらここは、笑うところなのかもしれない」に繋がる下りは痛々しいを通り越して悲愴ですらある。
そして皮肉にもその衝撃が、次なる扉を開き芯になるであろう「マーヤを殺したものの正体を突き止めたい」という衝動(の取っ掛かり)を守屋に与えている。
その衝動を自覚すると共に、守屋はマーヤの死を実感し涙と自身への不信を拭えぬまま物語は幕を下ろす。いやはや全く、著者の手腕にはただただ脱帽だ。 - ・ドレッドノート級朴念仁
- この物語は守屋の一人称で語られるため、彼が知り得ない他者の感情や情報は基本的に出てこない。出て来たとしてもそれは守屋の目を通した物でしかない。
しかし、守屋は作中で白川いずるから「どぼくねんじん」と呼ばれ(罵倒され)るタイプの人間だ。まぁそれを差し引いても、自分の事で手一杯の人間に他者の感情を想像する余裕など無いのは当然の事で、基本的にこの物語では守屋以外の感情が描写される事は少ない。
中でも、センドーの心の動きは直接的に表現される事が驚くほど少ない。
序盤〜中盤を読んだ時は、「ああ、守屋に好意を抱いて居るんだなぁ。守屋爆発しr」程度だが、第三章での月下の対峙を読み終えてからもう一度読むと、序章においてセンドーが絞り出した声と意図がどれほど哀しいものか、よく分かる。
つまり、情報が少ないだけで、キャラクターを記号ではなく人物として書くという信条を持つ氏に相応しく裏では相応の感情が渦巻いていると予測出来る描写が頻出している。
あれだけ悲痛な叫びを絞り出したセンドーは、どんな心の動きをしていたのか。センドーとマーヤの間にも確かな友情があった。故に手紙を出し、そしてただ一人だけ残酷な現実を知ってしまった彼女を思うと、憐憫すら抱いてしまう。
■今回の痛み
「ボトルネック」の感想で、俺は何故こんなにも痛むのか、と書いた。
その疑問を「さよなら妖精」にも当てはめるのなら、答えは明白だ。
それは喪失感と言う感覚故にだろう。
作中で守屋は明確に台詞として吐露している。即ち「なんでマーヤがこうなって、おれがこんななんだ」と。その感覚は主人公と感情をシンクロさせていた読者ほど強烈な物だろう。
俺も例に漏れず感情移入していたため、ここでのダメージは相当な物だった。正直な所、最初に読んだ時終章はまともに頭に入ってこなかったほどに。
■まとめ
先にも書いたが、この「さよなら妖精」は「ボトルネック」と同じように記憶に焼き付いているし、何度も読み返している。それは何故か?
答えは明確に出ている。
つまりは心を揺れ動かす「痛み」が忘れられないから、だ。
ボトルネックではそれを「致命的な毒」と形容し、古典部のそれは「ほろ苦い」と形容したが、さよなら妖精のそれを、俺は「切ない」と形容しよう。
この物語は多面的だ。青春小説でもあり、日常の謎ミステリでもあり、ユーゴスラヴィアの問題を絡めた社会派でも有るかも知れない。
それは正に米澤穂信という作家の持つエッセンスが凝縮されているという事に他ならない。
この物語が氏の代表作たりえる由縁は、そう言う事なのだろう。
本当なら、登場人物を引き継いでいるベルーフにも触れるべきなのだが、ここでは(俺が「失礼、お見苦しいところを」と「恋累心中」しか読んでないという事も相俟って)敢えて割愛。
かつて友人が俺にそうしたように、米澤穂信を最初に読むのならこれを第一にお薦めしよう。