五分後の世界
世に言うダブル村上の片割れであり、文壇云々を知らなくても名前を聞いた事はあるであろう作家、村上龍。俺も例に漏れず読んだ事無いけど名は知ってるという程度だった。
そんな状態で、この「五分後の世界」を手に取った理由は単純明快。
好きなゲームの開発者が「イメージ作りの参考にした」と発言していたからだ。
読み終えたのはかなり前だったので、今回感想を書くに当たって再読。
ネタバレについては考慮しないので、未読の方は要注意。
一言では言い表せない作品だが、今作の概要を述べるなら「パラレルワールドから現代日本への強烈なメッセージを書く」小説……と言った所だろうか。
箱根でジョギングをしていたはずの小田桐はふと気がつくと、どこだか解らない場所を集団で行進していた。
そこは5分のずれで現れた『もう一つの日本』だった。『もう一つの日本』は地下に建設され、人口はたった26万人に激減していたが、民族の誇りを失わず駐留している連合国軍を相手に第二次世界大戦終結後もゲリラ戦を繰り広げていた……。
(Wikipediaより引用)
粗筋はこんな感じだが、舞台設定は所謂異世界召喚モノに近い。
それが強烈なメッセージを帯びているのは、やはり配置されている要素に寄るのだろう。
- ・日本が失った理想郷
- まず「舞台設定は所謂異世界召喚モノに近い」と書いたが、あくまで近いだけであってライトノベルによくあるモチーフである「異世界召喚」とは決定的に違う。
最大の違いはそのリアリティだ。
第二次世界大戦で降伏をせず、戦い続けていたらこうなっていたかも知れない。
……という「if」を綿密にシュミレートした結果を実在した日本の分割統治計画を下敷きにしている辺りからして、違いは伺えるだろう。
そんなリアリティに幾つか小説特有の「嘘」を混ぜ合わせて生まれたのが、恐らくはアンダーグラウンドという壮絶ながらも理想的な「国家」なのだろう。
ある種の理想郷として描かれているのは、何も国家だけではない。
そこに住む家族の姿から人々の関わり合いまで何もかもが合理化され、ある意味では理想郷として描かれている。例えば温かな結束が息づく家族であったり、責任の所在を曖昧にさせ伝達スピードを妨げるとして廃止される敬語、老若男女全てが毅然としている、などだ。
ある意味では、本当に何もかもが理想的に描かれている。
往々にして理想郷というのは嘘まみれのように見えてしまうものだが、この小説に出て来るアンダーグラウンドにはそうした嘘くささが少ない。
ともするえば、本当に有り得たのではないか? などと考えてしまう程だ。 - ・生命の至上命題
- この小説に存在する人々のモチベーションは、「生き残る事」だ。
更に言えば生き残るために戦う事。作中文を引用すれば「敵にもわかかるやりかたで、世界中が理解できる方法と言語と表現で、われわれの勇気とプライドを示しつづけること」だ。
ここで「敵」と出ているから作中ではイコールで直接的な戦闘行為にも結びつける事が出来るが、本質は作中文が言い直しているように「敵」と言うよりも他者。もしくは自分以外の全て(≒世界)と置き換えられるし、それらに対して勇気とプライドを示しつづける事は俺達の日常生活でも必要な事だとも取れる。
勇気とプライドを示す、という曖昧な言葉が使われているが、作中ではそれらを具体的にした「仕事」が描かれる。この辺は実際に読んで貰った方が早いが、一つ言えるのは根底にあるのは「13歳のハローワーク」などと同じだ。上手く言葉には出来ないが、これは現代人を批判しているというよりは、こうなってくれという願いが込められているのではとさえ思う。 - ・対比
- この小説では第二次世界大戦を継続させた結果(訪れたかも知れない世界)を描いている訳だが、これは決してあの戦争自体を肯定している訳ではない。
寧ろ、あの戦争当時の軍に対してはかなり辛辣な批判が書き綴られている。
アンダーグラウンドの日本軍兵士というのは一種の理想像として描かれ、その対比として非国民村の(強者に靡き過去を繰り返すだけの心が「退化」した)人間はその正反対の姿として描かれる。同じ(作中の定義では全くの別物だが)日本人としてだ。
この対比は右とか左とかよりも、ニーチェが提唱した「超人」と「末人」の対比に近い。
つまりは兵士は「超人」で、村民は「末人」だ。
現代人は「末人」と化している、というのはもう十年以上前から言われている事だが、これは現代日本人への反定立であると同時に「警鐘」とも取れる。
反面「理想郷」として描かれているアンダーグラウンドにも女性の兵士が増えた事に寄る出生率の低下とそれによる国家の消滅が危惧されている。
現代日本とあまり変わらないそれは、この小説が刊行された1994年から既に危機感を持たれていた訳だ。そう考えると、今のこの閉塞感は来るべくして来たのかも知れない。 - ・そして小田桐はオダギリとなる
- 俺がこの小説で最も印象に残ったシーンは最後の時計を直す場面だ。
突発的に展開する長い戦闘描写や、一人の天才が手がけたライヴシーンよりも最後のたった一行が鮮明に刻み込まれている。逆に言えば、それまでの戦闘描写や様々な場面が全て結実したのが最後の一行なのだろう。
異世界召喚や迷い込みものではポピュラーとも言える「帰還」か「順応」かの二択で、小田桐は順応を選び、オダギリになる事を選んだ。ただそれだけなのだが、俺は読んでいる時にその情景が妙にリアルに浮かんだ。
それは再読する前、最初に読み終わった時に浮かび今でもそれを覚えている。
■まとめ
総評としては、あとがきで著者が言うように氏の最高傑作だろう。
とは言っても俺はデビュー作の「限りなく透明に近いブルー」しか読んでいないので、最高傑作も何も基準が未だ分かっていないような状況だが。
それでも、これは傑作であると断言出来る。
実際、「限りなく透明に近いブルー」では目が滑る事が多く、読み切るのにかなりの忍耐と努力を要した(序でに言えば「何かが道をやってくる」の序盤や現在進行形で苦戦している「ライ麦畑でつかまえて」もそうだ)が、描写の長さや凄惨さでは劣るどころか勝っているはずのこの作品を簡単に読めてしまった。
それはやはりこの作品が持つ魅力が凄まじく大きいからだろう。
万人には勧められない気もするが、それでも読んでみて欲しいと思う傑作。