アフターダーク

 衝動買いしてきた「アフターダーク」を読了。
 俺は世界に名だたる村上春樹氏の著作を、恥ずかしながらも「海辺のカフカ」しか読んでいない。その上、「海辺のカフカ」を読み切る上で時間を労したため、苦手意識を持っていた。
 今回の感想文は個人的なリベンジに備えた感想文。
 勿論、未だに消化出来たとは言えない「海辺のカフカ」に対する、リベンジだ。

 「アフターダーク」を読み終えて、まず始めに心に残ったのは「予兆」と過去の「思い出」。
 「予兆」に関しては、作中で起こりそうで起こらない出来事への予兆。これに関しては敢えて詳しく書く必要はないだろう。書き出せば、俺の技量ではネタバレは避けられないだろうし(ボトルネックで豪快にネタバレをしておいて何を言うと怒られそうではあるが)それを抜きにしても、この「予兆」は是非読んで感じて頂いた方がいい。

 もう一つの「思い出」の方は、幼い頃に体験した「夕闇」に関するトラウマに近い思い出だ。
 トラウマと言っても、第三者から見れば大したものではない。
 簡単に言えば、「幼い俺が自家用車で移動中に眠りこけてしまい両親と祖父母は俺を車の中で寝かせて外で用を済ませていた、両親達が帰ってくる前に眼を覚ました私は、姿の見えない両親達に独りぼっちになった自身を再確認して泣き叫ぶ」という、幼児にはありがちなパターン。
 季節は秋口であったし、状況から言って両親達は起こすよりも寝かせておいた方が良いと判断したのだろう。今の年齢になれば、それは理性的に理解出来る。
 だが、理性とは関係のない所でその体験は深く焼き付いている。
 あの時見た恐ろしい程に赤い夕陽と、後ろから迫る夕闇は今でも鮮明に覚えている。親とはぐれて泣くなどは幼少期にはありふれているが、鮮明に覚えている記憶は殆ど無い。
 何故こんなにも焼き付いているのか、今にして思えばそれは初めて死を感じた恐怖であったのかもしれない。死にかける程の何かに遭遇した訳ではなく、両親と共に出かけていた理由が母方の叔父が眠る場所を探しに来ていただけだが、幼少期には充分死を連想させる物だった。

 夕闇、日没、これらに死を連想する文化は非常に多い。
 それは夕闇に不思議な魔力があるからなのだろう。
 「アフターダーク」を読むと、あの不気味な夕闇と泣き叫んだ記憶を思い出す。
 同時に、泣き声に気付いて戻ってきた両親に抱きかかえられた時の暖かさも。
 あの暖かさが無かったら、どうなっていただろうと想像するとゾッとする。

■暗闇

 すっかり自分語りになってしまったが、「アフターダーク」には「暗闇」が頻出する。
 その題名通りに日が沈んだ後の都市を舞台にしているからという理由もあるが、それ以上に著者が意図的に「暗闇」を描いているからだだろう。物語に登場する人物達の口から語られる言葉として、また状況を語る第三者の言葉として「暗闇」は何度も読者の前に描き出される。
 物理的なものに留まらず、都市の暗部から世の中のシステムにある暗部。
 それらも「暗闇」として等しく描き出される。
 結果、読者自身が持っている「暗闇」までもが描き出される。
 少なくとも俺は、数々の「暗闇」に混じって思い出の中にある「暗闇」を知覚させられた。

 反面、「暗闇」を知覚するということはそれに寄り添うように存在する「光明」を知覚するという事だ。作中で言うのなら「予兆」と迎える「陽光」がそれに当たるだろう。
 多くの文化で「日の入」が死を連想させるなら、多くの文化で「日の出」は生を連想させる。
 それと同じように、最後はまるで甦るかのような息吹を感じられる。
 ま、「予兆」も光ばかりではないのだが……それも実際に読んで感じた方がいいだろう。

■私たちという視点

 この小説には特徴的な視点が存在する。
 それが「私たち」と自称する視点だ。言わばこの小説の語り手であり、そして恐らく小説を読んでいる俺たちの視点であり、その複合体とも言える視点。あるいは小説を読む俺と言う外側と、小説として読まれる内側を接合するための視点。
 まるで自意識を持っているかのように描かれていたり、殆どの登場人物の心情はその行動とその推察でしか示されていると事も含め、「新しい人称」として用いられている。
 俺が把握しているだけでは、一カ所「私たち」なのに登場人物の心情を直接明示している部分があるが、「私たち」がその人物の内側から「見ている」という解釈も出来る。
 いやはやまったく、面白い実験だな。

■重なる暗喩

 「海辺のカフカ」にそれが偏在するように、アフターダークにもまた暗喩が幾重にも重なって存在している。まさに現実を暗喩するかのようにびっしりと。
 中でも俺が印象に残っているのは「裁判所はシネコンに似ている」から始まる下り。そこから感じるのは、俺が普段信じている境界線の曖昧さ。そしてその話の前に出ている「アルファヴィル」の下りを含めて考えるならば、情愛とアイロニーを削ぎ落とし、記号化し数式として処理するシステムの存在。それを国家と呼ぶか法律と呼ぶかはたまた社会と呼ぶか、それは作中通り時と場合によって違うわけだが、そのシステムによって処理される恐怖。そして処理する側と処理される側は容易く入れ替わり、それを自覚する事すら難しいという事実。
 鑑の中やテレビの中と形容される、「あちら側」は、まさしくそのアルファヴィルなんじゃないのか? 顔のない男は記号化の果てに顔を「なくした」男じゃないのか? 顔のない男とは即ち、匿名性によって情愛とアイロニーを削ぎ落とされた俺あるいはお前じゃないのか? 描き出そうとしている「暗闇」というのはそれなんじゃないのか? という疑念は尽きない。
 疑念は尽きないが、そうだったとしても対応策も示されている。顔を無くさずに居るにはどうしたらいいか、無くしたとして取り戻すにはどうすればいいのか。作中の言葉を借りるならば「思い出す」ことだ。攻殻機動隊の人形遣いは「(たとえ記憶が幻の同義語であったとしても)人は記憶によって生きるものだ」と言ったが、この小説は「記憶とは燃料だ」と書いてる。
 記憶の質は問わず、どんな物でも燃やす生命の火は暗い記憶も明るい記憶も、楽しい記憶も悲しい記憶も等しく燃料となる、と。顔をなくしそうなとき、個を失ったときは「思い出せ」か。
 存外。わからんでもないな。

■まとめ

 救いは有るようで無い、無いようで有る。
 所謂、スーパーシンキングエンド。気になる人は読んでみるのがオススメ。

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