スクリーマー

 頭痛がする。
 耳の奥、鼓膜の奥で、大した知識も入っていない脳味噌が揺さぶられているような、そんな痛みだ。
 俺は内心で「またか」と呟き、机に突っ伏した。少し視線を上げると教壇の上では、こちらの事など気にもせず数字とアルファベットの羅列を書き殴る教授の背中が見える。俺が三年この大学に在籍して学んだ事は、大学の講義という物は後ろの席に陣取る劣等生が突っ伏そうが、お構いなしに進むということだ。

 この頭痛との付き合いは、少なくともこの三流大学に在籍している時間よりは長い。最近その頻度が多くなってるのが、俺が抱える小さな悩みの種だ。
 突っ伏してもお義理で数式を眺めていたが、見ていると更に頭痛が酷くなりそうな気がする。気がするというか、実際少しずつ酷くなってる。結局は居眠りをするような体勢になり、俺は目を閉じた。
 瞼を閉じると闇が訪れるというのは、あまり正しくないと思う。光の残滓が俺の揺れる脳味噌に焼き付き、瞼の裏に朧気な白を見せる。結局、人間脳味噌がダメになる瞬間つまりは死の間際にしか真の暗闇は分からないんじゃないか? などと思う。

 そういう、どうでもいいことを考えれば少しは頭痛がマシになってくれるかと期待したが、あまり意味はなかった。頻度が多くなっている上に持続時間まで長くなっているのか、一度始まるとなかなか終わりが見えてこない。
 昔は妙な病気かと疑ったが、何度も病院に赴いては何度も気のせいだと言われ、その内に心の問題ではないかなどと言われて、医療というのも結構穴がある物だなと学ぶだけに終わった。
 それに、放っておけば治るということも俺の危機感の薄さに繋がっている。こう言ってはなんだが、俺は我慢する事に関しては他者より秀でているという自負がある。頭痛の一つや二つ放っておいて治るなら幾らでも我慢してやるというものだ。

 しばらく頭痛との我慢合戦を続けていると、講義の終わりを告げる電子音が鳴った。この講義中に治るだろうとばかり思っていた俺としては、眉間に皺を寄せるくらいは許されるのではないか? 等と下らないことを考え、仕方なしに顔を上げた。
 次の二限目も講義があるが、出席日数は足りている。正直、俺は頭痛をおして講義に出るほど勤勉な学生ではない。欠席した所で大した打撃にならないと分かっているなら尚更だ。
 俺は痛む頭で狡い計算をし、鞄に筆記道具を放り込みさっさと講義室を後にした。目指すは学内にある図書館だ。本来は本を読むべき場所だが、三流大学では本を読むため以上に睡眠と堕落を貪るために訪れる者の方が多い。かく言う俺も本は好きだが、最近は惰眠を貪る方の意味で図書館とお友達だ。

 俺は頭痛に顔を顰めながらも、恙無く図書館に辿り着いた。
 広いエントランスとカウンターを横目に二階へ上がり、読むつもりもない本を一瞥もせず手に取った。そのまま淀む事もなく特等席にしている窓際の席に腰を落とす。我ながら無駄に洗練された動きだ。頭痛に苛まれつつここまで出来るのなら、図書館の惰眠を貪る意味で親友と称してもいいかもしれないな。
 そんな下らないことを考えつつ、俺はお義理で持ってきた本と鞄を机に置く。さっそく先程と同じ居眠りをするような体勢を取り、目を閉じた。
 四限に落とせない講義が入ってさえいなければ、さっさと帰って寝たものを。まったく頭痛のタイミングも講義も忌々しい。
 その忌々しい頭痛は、まったく勢力を弱めない。おまけに今度は耳鳴りまでお出ましだ。甲高い耳障りな音から、次第に音叉の響きのようなものになり、ついには金切り声のようになった。
 まったく、今日は頭痛さん絶好調だな。
 このような耳鳴りも、別に初めてじゃないが稀と言えば稀だ。稀なものがつい出てしまうくらい頭痛さんの調子が良いと言うことは、そのまま俺の調子が悪いということに他ならない。
 頭痛と耳鳴りに辟易しつつも、俺は目を開けた。目を閉じていても何ら進展しないのなら開けてみれば何か進展するんじゃないか? という自分でもよく分からない思いつきの元に。

 結論から言えば頭痛も耳鳴りもまったく変わりはなかったが、俺は肝を潰した。目の前にある窓が、俺の後ろに立っている女を映しているのだ。しかもその女は驚いた事に、この公共の場で素っ裸だ。それなりに女性への興味がある俺としては、欲情して然るべしと言わんばかりのグラマラスな体格だ。が、何故か俺が感じたのは背筋が冷たくなるような畏怖だった。女は俯き目元は長い黒髪で隠れてよく見えない。口元は引き結んではいないが開いてもいない。
 頭痛も耳鳴りも治まっていないが、俺は慌てて振り返った。そんな不可思議が自分の真後ろにあるなら、誰だって振り返るだろう。
 しかし、振り返った先には俺と同じサボタージュを決め込む学生が二人居ただけだった。
 疑問を口の中で呟きながら視線を元に戻したところで、俺は再び肝を潰す。窓に映る俺の背後には、やはり先程の女が映っている。
 遂に幻覚まで見えるようになったのか? と一瞬考えたが、その女が顔を上げ目が見えた瞬間にそんな考えは吹き飛んだ。
 その目は黒色で、全てを見通しているような不思議な光が見える。そして何故だか分からないが、その目を見た途端に、今まで驚いていた自分がアホらしくなってしまった。俺は窓に映っている女を知っている。見た事はないし、知り合いにもこんな女は居ないが、何故だか「知っている」と俺は納得してしまっている。そして現実に存在するのだ、とも。素っ裸でいるのにも、何故だか納得してしまった。
 何なんだよ……と独り言を呟いた所で、その女は明確に俺を見た。視線の移動が窓に映り、それを介して俺と女の視線がぶつかる。瞬間女の黒い長髪と黒い双眸に虹色が煌めいた。黒い海に浮かぶ油膜に暗い虹色が見えるように。
 それは女の中に細波が立ったかのような変化を――それも俺にとっては良くない変化を起こしたように見える。
 女は特に表情を変えないまま、僅かに口を開いた。俺の目を見て、だ。
 途端に、俺の中に激変が訪れた。

 痛い。脳味噌が揺れるじゃなくて割れるような痛みだ。
 耳鳴りは金切り声がより大きくなり、誰かが悲鳴と共に何かを訴えてるように聞こえる。
 誰かが? いや違う、誰かじゃない。
 俺は直感で判断した。この金切り声は、窓に映る女の叫びだ。
 ざり、とラジオに雑音が混ざるように金切り声の嵐に一つの意志有る言葉が混ざる。ラジオのようにツマミでもあるならすぐにでも聞き取れるようにチューニングしたい所だが、生憎とそんなものは無い。
 割れるような痛みと金切り声が濁流のように押し寄せて、最早何が何だか分からない。すぐにでも頭を抱えて蹲りたい所だが、何故だか窓を介した視線の衝突をこちらから避ける事が出来ない。まるで金縛りにでも遭っているかのようだ。

 ざり、とまた言葉が混ざった。今度はある程度何を言っているのか理解出来た。

 ――い……。か……い。
 ――…たい……なし……

 その言葉の意味が分かった時、俺の割れるような痛みは殊更に酷くなり、耳鳴りの金切り声は音と言う音を掻き消していく。
 その言葉は嘆きか呪詛か、兎も角決してポジティヴな物ではなかった。
 おいおい、呪い殺されるような恨みを買った覚えなんか無いぞ。と訳の分からない事を考えて、はたと気付いた。ああ、俺はもしかして今結構死にそうなんじゃないか? と。いくら俺が我慢強いと言っても、この頭の痛さは異常だ。呻き声すら出ないほどに痛いなど、これまでの人生の中で一度たりとも経験がない。
 目は女の視線とぶつかったまま。自分でも体がカタカタと震えるのが分かる。
 痛みが更に増し、頭痛どころか全身が痛み出した。金切り声はまるで俺が発しているかのようにも聞こえる。
 目の前が次第に暗くなる、目を閉じてる感覚はない。目は依然として女の視線と衝突している。まるで端から徐々に視界を奪われているかのように、目の前が暗くなっていく。
 やがて、暗闇に閉ざされた。瞼を閉じたあの白の残る闇とは違う、光の残滓すら感じられない闇。そして――

 ――死ぬ、と思った瞬間に目が覚めた。
 意味が分からず跳ね起き、辺りを見渡す。まさかあの世にでも辿り着いたのか? 等と我ながら下らない事を考えた。
 しかし、見渡した結果に分かったのは、ここがついさっきまで俺が震えてた図書館で、静寂が支配すべきこの空間で物音を憚りもせず立てた俺が白い目で注視されている、という状況だけだ。白い視線はやがてすぐに無関心に変わり、各々の元の方向へと戻っていった。俺もまたすごすごと座っていた席へと腰を落とす。
 そこでふと気付いた。頭痛と耳鳴りが消えている。
 一眠りして夢を見た序でに治ったものと都合良く解釈し、俺はケータイを取り出して時間を確認する。時刻は次の講義までまだ余裕がある事を示していた。
 安堵のため息とともに、俺は妙に凝り固まった体を大きく伸ばす。あんな悪夢を見たせいか、やたら疲れている。

 一頻り体を伸ばした所で、今度は暇を持て余す。頭痛が消えると別段特にやる事もなくなった。折角図書館にいるんだし、と眠り込む前に持ってきた本を手に取った。表紙には「ガイア理論」とある。はて、生態学の棚なんて通っただろうか? 惰眠の為の図書館利用アクションが極まりすぎるとこんな弊害が出るんだな。まったく心当たりが無い。まぁ今から本を探して持ってくるのも面倒だ。流し読みするつもりでその本を開いた。 
 そこで、俺は目を疑った。
 悪夢で見た女がそこに載っていた。絵画として描かれているから多少印象が違うが、間違いない。あの女だ。横の注釈にはフォイエルバッハ画「ガイア」(1875年)と書かれている。
 一瞬で様々な考えが脳味噌を巡り、もし仮にあの女がつまりは地球だとして……と考え、あの金切り声が何を意味するのかを考えて、薄ら寒くなった。
 だがまて、あれは単なる夢だったんじゃないのか? そう思い込もうとしてもなかなか寒気は消えなかった。俺は何処かで信じてしまっている。俺はこの大地の悲鳴を聞いたのだと。

 また、講義の終わりを告げるベルが鳴った。俺はいつか漫画で読んだ「地球は泣きも笑いもしない」というセリフを口の中で呟き、目が離せなくなっていた本を無理矢理閉じて立ち上がった。
 忘れろ。忘れるんだ。単なる夢だ、気にする事じゃないだろう。
 そう繰り返して、ふと窓を見る。
 そこにはあの暗い虹の髪と瞳があり、艶めかしいその唇が俺の耳に触れている。

 そして俺は叫声を上げた。俺が聞いていたものとそっくりに。

(了)

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